昭和50年08月18日 月次祭



 先日富久信会が十五日に、丁度御大祭の前夜祭の引き続きで御座います。ここで商売人、いわゆる商売をなさっておられる方達ばかりの、信心研修ですからどうすればお客さんに喜んで貰うか。どうすれば商売が繁盛のおかげになってくるかと、まぁ言う事が焦点で御座います。折角矢張りお商売をさせて頂くのですから、矢張り繁盛しなければなりません。だからそれが唯、繁盛繁盛というだけではいけんのです。
 本当の繁盛いわゆる家繁盛子孫繁盛、親の代よりも子の代に繁盛して行くおかげで、なからなければなりません。良い品物を安くまぁこれなら信心を、例えばなくっても必ず繁盛致します。もうそれはもう宣伝も何も要りません。良い品物を安く買うた人が、その嬉しさを、また次から次へ伝えて行く事でしょうから、もう繁盛疑いないです。だから自然、儲かりもする訳ですけれども、その儲かっただけでおかげと言う事じゃ無いのです。儲かったから返っておかげを落とす。
 という例は沢山あります。沢山財産を残しておったから、子供やら孫が無気力な子供達ばっかりであったと云う様に、言わば長者三代無しの例えの様に、おかげを落として行く元を残して行く様な事になります。だからどうでもいわゆる、信心によってでなからなければいかん。神様のおかげで繁盛と言う事にならなければならぬのです。と云う様な話が、まぁ中心になるわけで御座います。まぁ色々と有難いもう本当に有難いおかげを受けて行ってる話を聞かせて頂まして。
 もう最後に。菊栄会の方達二人に発表をして貰ました。そして最後に私が皆さんに申しました。お互いが先ず信心をここまでは進めておきたい。菊栄会といい松栄会といい、高揚会と言うけれどもやっぱり本当に、丁度剣道なら剣道で段を貰う様に、はっきりしておるのに驚きます。これが総代会になったら、もっと素晴らしいでしょうね。まだ分からん、それは。総代会の人か分からない。もう私はとやこう言うけれどもやっぱり菊栄会の方達の、その積み上げて来た信心と言うものは素晴らしいと思うたです。
 正義先生がこう言う事を申しております。誰でも知ってもおるし、言うてもおるけれどもね、この人の場合は、本当にそうだと思っておるだろうと言う事が、次の行動次の行いで分かるのです。例えばお商売をさせて頂く。お客さんに来て頂く。それはねもうきて頂くのじゃない、神様がお引き寄せを下さったと思いますと言うのです。ですから中には良いお客さんもありゃ悪いお客さんもある。
 返って迷惑になるお客さんもあるかも知れんけれどもです。私はこの人達に一人一人お礼を言うて回りますとこう言われる。ほかの事を店をやってますから。矢張り良い人もうとにかく、神様がお引き寄せを下さったんだと言うのです。成程繁盛する筈だと思います。文雄先生がこう言ってました。まぁそう言う事とは、まぁ然反対な事ですからね。文雄さんの場合は言うならば京呉服の、言うなら行商の様なものです。店は持ってる訳じゃありませんから。
 それでねお客様に一人一人にお礼を言うて行く。それではないけれども私はね例えば、朝自分の心の中に、今日は右が良かろう左が良かろうと思い、感じこの家に寄りたいと思う所に寄らせて頂くが。それをそのまま、神様のお指図だと思うて、日々を過ごさせて頂いておると言うのです。はぁ今日は右に行けという例えば感じ。またはこの家に寄れという感じそしてほんなら、商いが出来るとか、出来ないじゃないです。一日いうならば、棒に振って帰る様な事もあろうけれども、帰ったら。
 神様のお指図のまにまに動いているのであるから、今日も結構な修行をさせて頂いて有難いとお礼を言うと言うのです。信心もね、ここ迄の所が出来ますとね。信心が楽しゅうなって、本当に有難くなると思うです。けれども一遍には出来ません。矢張りそれにはそれの段階があるのです。今日午後のお届けに、ある所から電話が掛って参りました。まぁ小一年も一生懸命お参りになったでしょうか。最近お参りにならんなと思うておったところが、電話が掛って来た。
 先日からある共励会に臨ませて頂いたら、もう本当にこんなにひどい事を言われた。どう言う事を言われたのかと言うと、こう言う事だと言うのです。私は聞きよってから、それはあんた、返ってお礼ば言わんならん事のごたる感じがするねと。もうそれがもうここ何日間、頭から外れん。言うなら馬鹿にされた。人を軽蔑された。そこで主人にその、もやもやを話させて頂いたら、「そげな事お前は思うごたるなら、参らん方が良いじゃないか」ち。主人が申しますからとこういうのである。
 折角合楽に御神縁を頂いて、もうそれこそ有難い有難いと、それこそぼうけた様になって、遠い所から毎日お参りしておった人が、お参りをしてこなかった。信者同士何かがあって、それも、悪気で言うた事じゃなかろうと思われる様な事を、まぁ悪気で聞かれた訳です。私から聞いておるとそれはお礼を、いや心の中ではそれこそ、しれっと笑いたいごたる事なんです。
 今朝の朝の御祈念の後に、佐田さんからお届けがありました。あちらの日田のずっと山奥に親戚があります。あの森と言うですか、豊後森というですかね。あちらのまた山の中へずうっと入って行かんならん所で、ようやく最近自動車の通う道が出来たと云う様な田舎から、もうここ何年かお参りになります。本田さんという中々良い信心をされます。先日から私の方のその山の中のですけれども、先生方にどなたか来て頂いて、信心の共励会をしたいとこう思うとこう言う。
 それでもあぁた、あぁた方一軒の為にね、先生方が一人なり二人なり、また信者さん方が何人か行くに違いがないが、それではねあの返ってご迷惑をかけるじゃないの。まぁせめて一軒なっと二軒なっと、お導きをさせて頂いて合楽示現活動が出来て、そしてその人達の家族が集まってお話を聞きたいというから、お話に行くのなら良いけれども、まぁだ早過ぎらせんかと、私が申しましてからもう間もなくで御座いました。
 ある材木商の方ですかね。製材なさっておられてあるその方をお導きされた。お参りをして来て兎に角有難くなって、もう二度目には家族中を連れて参られました。もう三度目にはもう大変な感動でした。お願いした事がおかげになる。兎に角こういう有難い神様を今まで知らなかったと言うて、まぁ残念がられる様である。今度の大祭にもおかげを頂いておって、もう兎に角有難い有難いでもう。
 その本田さんと二人でどうでも一つ共励会を、まぁ共励会ち言うがあちらの方へその大分支部を作って貰たい。大分支部は日田にあるから、ほんならもう森支部でも、何支部でも良いから、兎に角あちらに支部を作って貰たい。私が姉妹が十二人おるけれども、一人が亡くなったから現在十一人である。その十一人の姉妹とそれには、甥っ子姪っ子がおりますから。集めれば四十人位は集まります。
 それに本田さんのお宅をこう集めると、五十人ぐらいは集まるだろうから、どうでも一つ共励会を開いてくれないかと言うのです。そういうお届けがあっておる時に、また電話が掛って来た。これは本田さんからであった。昨日頼み寺のお寺さんに、今度の大祭にお参りをさせて頂いて。まぁ本当にどこをどう有難く頂かれたか知らんけれども、もう生きても死んでも頼む人はもう、合楽の親先生以外には無いと思うた。
 どうかしていうならば、仏教から金光教に改式のおかげを頂きたいと思うておる矢先に、お寺さんからの案内が丁度来たから、昨日一昨日やらせて頂いて。そのご法要ならご法要に併せて頂いて、帰りに永年お世話になったお坊さんに色々とお世話をいうて、惟からは本田の家は。もう兎に角先祖様も全部、合楽の金光様にお移しするからどうぞ、今日は最後で御座いますからというて言うた。
 そしたらお坊さんがカンカンに怒られてから、「そげなこつ言うてからあんた、後から後悔どんしなさんな」というてえらい言わっしゃった。「いいえもう絶対後悔は致しませんから、どうぞよろしゅうお願いします」と言うて、向こうは腹かいて御座ったばってん、こっちは頭を低うして帰って来た。それで合楽の先生が引き受けんち言いなさると、どんこん出来んけんお前直ぐ、今日は俺はどこからどこに行かんならんから、電話を掛けてお願いをしといてくれと言う事であった。
 もう兎に角有難いものでこう、燃えておる時にはね。普通で言えない事が言える。とても普通ではない事が、事実に起きて来る。そういう例えば有難い有難い中にあってです。それがあっと言う間に冷え切ってしまう様な事があるのです。それこそそこの坊さんじゃないばってん、しもうた合楽に改式しとったけんでしもうたと。後悔する様な事があるかも分からんのです。けれどもそういう時が一番信心は大事な時であって、文雄先生が話し言うなら、正義先生達の話を一番初めに聞いて頂いたがです。
 そう云う所を通り抜けて、ほんなら只今申します様に、信心もここまでは頂いておかなければならない。ここからなら、先ずは動くまいと思われるので御座います。ここもう二十日あまりでしょうか。山本から製材をなさっておられる方がお参りして見えます。深山さん。ある難儀な問題で、参って見えたんですけど、もう最近では、その難儀なその問題そのものがもう、有難うして有難うして応えん。その事のおかげで今毎日二回づつ参ってみえる。おかげで主人も変わって来た。
 はぁ主人が変わったつじゃない、あんたが変わっていき寄るからタイと、まぁ申しましたが。昨日一昨日の朝でしたか。お夢を頂かれた。それが自分の家のお風呂とも、うちの温泉ともつかない、お風呂へ入っておる。それを誰かがこうして覗いておる。それが何と、覆面をしてあるから分からんばってん、どうも合楽の親先生のごたる。まるきり出刃亀のごたる。(笑いながら)はっは風呂場はっはは。
 そして良く見るとその周囲にです。自分のお付き合いの人。あの人にも信心の話をしてあげたら助からっしゃろばってん、言うたっちゃ聞かっしゃらんと言った様な人達が周囲に、幾らもおると言うのです。どういうお夢だろうかと、こう言うわけです。誰でも合楽に通うてくる。一日二日三日と続けておる内にです。確かに喜びの目が出る。はぁ信心ちゃ有難い、もうどうして本当に、こういう有難い信心を、早くさせて頂かなかっただろうかと言う様に、必ずなって来る。
いうならばお風呂に入っておる様なものであっても、暑かっても寒かっても。それこそはぁ極楽と言う様なおかげが頂かれるのです。けれどもねそれからというて、お風呂にばっかり入っとる訳にいかん。だからその方に私が申しました。いっちょ湯冷めのせんごたる信心を、どうでもせにゃいけませんよとこう言うのです。毎日毎日お参りをされて、ここでもうそれこそ頭を畳に擦り付けて、昨日から今日にかけてのおかげ。昨日から今日にかけて頂いた御理解を、こう頂こう思わせて頂く感動。
 そのお届けが御座います。けれどもそれは深山さん、貴方は丁度お風呂に入って、あぁ極楽と言いよると言った様なものじゃなかろうかと、私は申しました。それこそ血の涙の出る様な事があるかも知れないけれども。そう言う中にあって、信心頂いておると言う事が有難いと気付かせて貰、分からせて頂く様な信心こそが言うならば風呂の中も有難い、風呂の外もまた有難いという信心に進んでいかなければいけませんよ。始めの間十日、二十日参っておる間は、皆んな本当に一時ぼうけたごとなって。
 お参りをして来るけれども。その湯冷めをする風邪をひく。咳が出る熱が出ると言う事になって来るとです。それこそ今日私がお電話でお取次ぎさせて頂いた方の様にです。もう暫く信心を、だから止めようかと思いますと、言う様な事になって来たんでは、惜しいでしょう皆さん。これがね。ただ目先のおかげ、その事だけを頂けば良いというのじゃなくて。私共が生涯かけて、しかもあの世にも持って行け、この世にも残しておける。もしそれが、商売をしておる人ならば、信心のおかげ。
 神様のおかげ、お力によって、これだけの繁盛のおかげを頂いていく。このおかげをです、子にも孫にも、伝えて行けれるというおかげなのですから。皆さんも信心をお勧めになっておいでられる内に、必ずう言う所に出会うもんです。用心しなければいけません。そこん所をむしろ私が今日、お電話を聞きながら、私ならお礼を申し上げる事に、言うなら頭に来てる腹が立っておる。お参りもしようごと無くなって来ると言うのです。今朝からの御理解の中に、久し振りで、御理解百節を頂いた。
 祝いめでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神は、家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃと。その子孫繁盛の道、家繁盛の道と言うのは、どういう道なのか。それは、商売の道でもなからなければ、百姓の道でもない。どこまでも天地に繋がる御道である。天地と交流する道である。そこから尽きぬおかげ、限りないおかげの頂けれるルートを辿ってくるおかげを受けれるように、金光大神は、その事だけを教えておられるのであると言う事。
 昨夜から私ある事で丁度夜中までお参りが御座いました。昨日は合楽会でしたから十二時半。それからまたお参りがありました。丁度もう一時頃からお取次ぎさせて頂いたから、ま小一時間おられましたでしょうからもうやんがて、時計見れば二時じゃったじゃなかったかと思いました。まあその、三時十五分に起きますから、まぁ一時間あまりをあれこれ思わせて頂いてです。
 私が、おかげを落とさんで済むというのは、こういう次々と、難儀な人達の事が、何時も頭の中にある。今日お取次ぎをさせて頂いた、あの人の事この人の事をです。思うとあの、心配で眠られんというのじゃなくてね。それを祈っておると、寝ながらでも益々頭が冴えて来る。ははぁ、だから私は、おかげを頂くんだなと思うた。そして、しきりとです、あれは孟子か孔子かの言葉でしょうけれども。「小人閑居して不善をなす」と言う様な言葉がありますですね。
 小人と言う事は、まぁ凡夫と言う事でしょう。大人と言われる様な、言うなら君子と言われる様な人は、それこそ千人万人の中に一人あるかないか分からん様な事だろうと思います。私共はそのいうならば、凡夫であり小人である。しかしその凡夫は、またはその小人はです。暇が出来ると必ず良い事は思い立たんと言うのです。良い事はしないと言うのです。そこで惟をです、小人はです少しおかげを頂いて、金が貯まるとすぐ要らん事に使うてしまうと云う様な事に言える訳です。
 小人は必ずそうなんです。私共の様に、デパートをこう廻らせて頂いて、まぁ見物して、例えば廻りましてもです。あれが欲しいというものが、全然なくなっておると云う事。またあそこに行きたい、ここに行きたい。あれを食べたいと言う様なのが無くなっておると云う事。始めからそうではなかったけれども、そういう修行をさせて頂いたからだと思うです。私がもしあの修行中の時分にです。
 私は箇条書きにずうっと書いておる、例えば神様にお誓いをさせて頂いた、言うならば修行の中に私共夫婦がです。布一寸買いません。下駄一足買いません。米一粒買いません。一生風呂には入りません。あれもしませんこれもしません。例えば好きで覚えた三味線でも、三味線を握ろうとは思いません。歌の一つも歌おうとは思いません。歌いません。まぁその中に皆さんも聞きながら、先生がしらごつばっかり言いござるち思いよる人があるかも知れません。
 年に何遍かぐらい三味線をほんなら、握らん事がないじゃないです。けれどもねお供えしとるとをそん時、お下がり頂いたと云う様な感じがするですよね。勿論そんならさぁ、今日は一ぱいじゃけん、三味線でん出さんかと言うた事は、もうそういう心が起きて来ないです。もう本当に下駄一足買いません、布一寸買いませんと言った様な事は、徹底しておかげを頂いたがです。
 ほんに一生風呂入りませんてんなんてん、どうしてあぁいう大胆な事を神様にです、お約束しただろうかと思うくらいでしたけれども、そらもう朝晩水行致しとりますからね、そら大した事ないとやっぱ、思うとったでしょう。さぁところがタオルが集まって来る、石鹸が集まって来る。おかしな事だと思いよったら、とうとうお風呂桶のお供えが来ましたからね、椛目時代。
 その風呂桶のお供えをさせて頂いたら、神様が今日からはお風呂をもうそれこそ、神様の方が入ってくれと言わんばかりの様なお知らせを頂きました。もうそれこそ風呂の縁にしがみ付いてから、泣いた事を覚えておりますが、今はそれこそ唯の極楽極楽でね。それこそもう平気になりましたけれども。その中にです私がもしそういう神様へ。言うなら自分を窮屈な所に置いてしまっておったおかげです。小人だけれどもほんなら、不善をなさんで済んだと言う事で御座います。
 もうこれには、どれだけお金を持たしても、無駄遣いでもする様な事じゃない。本当に私は思うです。私はもう、商売より外に知らん。大商人になりたいと思うて、ほんなら今日皆さんが言うて下さる様に、合楽はお城の様なお家だ。と言う風に言うて下さるが、お城の様なお家に住まわせて頂いておってもです。私の心の中には、一つもそれが。不善と云う事ではない頂き方が出来ておるという事がです、有難いです。そこでです、自分のね、本当に苦しい時にです。
 自分を一つ自分がね、大人ならば良いです。君子ならば間違いないです。けども、私共のように、小人である凡夫はです。自分があぁもしません、こうもしませんと、神様が安心して下さる生き方をです。神様にお約束する。言うならば自分をいよいよ、窮屈なところに追い込んで行く様な生き方の中にです。その窮屈な中に、それこそ世界は和賀心にあると言う様な自由無碍、自在なおかげが頂けて来るのです。
 先日の御大祭に、家内が着ておりました着物もですけれども、あの帯はもうそれこそ、何年頼んでおっても、描いてはくれないと言う様な絵描きさんが、あの家内の為に描いてくれたのを、お供え頂いた。しておりましたあの帯の帯締めに付いておったヒスイは、あれは、半額で買うて十五万円もするというものを、ある方がお供えなさったんです。本当にこの頃家内に、私が言うておる。お前がもんばっかりじゃないかと。もうそれこそもう、ダイヤにヒスイにもうありとあらゆる宝石類をね。
 お供え頂いておると云う事。はぁ今度儲かったならいっちょ、ダイヤの指輪ばお父さん買うて下さい。今度儲かったなら、あげな着物ば、どうでんこうでんいっちょ、前にちゃんとその、デパートに見げ連れていっとる。そして今度儲かったなら、あん着物ばいっちょ買うて下さいち言うごたる風に、そう言う様な事ではね。絶対、本当のおかげは頂ける筈がないです。けれども、神様は与えとうて堪りなさらんと言う事を、私共夫婦が頂いておるおかげから感じれれるでしょうが。
 だから私共は凡夫である。私共は小人である。小人閑居すれば、必ず不善をなすという、それを、もう一つの真理のようなもんである。だからそれを打ち破るという。小人です、凡夫ですけれどもです。神様の仰せに従うていくと言う生き方を、本気で身に付けさせて頂くところからです。いよいよ間違いのない、限りのないおかげに繋がって行く様なおかげが頂かれる。そういうおかげをです、私は何時までも残して置けれるおかげだと思うんです。それにはね。
 いわゆるただお風呂に入っておって、あぁ極楽極楽といっておる様な事では。何時までも、そんなに極楽と、そう云う事が続く筈はありません。そげん長く入っとられるはずはありません。そしてその有難い時にはです。それこそ矢でも鉄砲でも持って来いと云う様な勢いも出ますけれでもです。それが冷静になって言わばより本当な信心に進んで行く。そしてまぁ例えば、まぁ皆さんが今目指さなければいけない事は、もし惟は商売人じゃなくてもそうですよ。
 言うならば起きて来るその問題そのものをです、神様が私に指し向けて下さった修行であると頂いて行く。良い事悪い事につけて、頂いて行くという生き方が、正義先生の行き方じゃないかと思うです。指し向けて下さるお客さん。良いお客さん悪いお客さん。必ずお礼をいうて廻るというそれである。信心が段々段々進んで参りますと、自分の心の中に神様が宿って御座る事が実感出来るようになる。右に行きたいと思うが、はぁ今日は神様が今日は、右に行こうち思い御座るばいなと言うて右に行く。
 今日は左に行こうと思い御座るばいなという左を取る。そして商いがあるとか無いかは別だ。今日は神様のお指図のまにまに、一日を歩かせて頂いて、足を棒にして廻ったけれども、商いは無かったじゃなくて。今日も良か修行させて頂いて有難かったと言う事になるのです。そういう信心が、また段々段々身に付いて参りました。それこそ小人。閑居して不善をなすのではなくて。儲け出したから楽をしたい。
 楽をしたい為に働きよると言った様なものが、根本的に、段々本当な事に変わって行くのじゃないでしょうか。おかげを頂いて、いよいよそれこそ、めでためでたと云う様な、おかげを頂きたいです。それは神様も喜んで下さり、私共も喜べると言う信心。ただ私が頑張ったから。頂けたおかげではなくて、私共がもう今言うその、頂抜かせて頂いて、頂いたおかげというおかげを、いよいよ身に着けていきたいと思います。
   どうぞ。